サンプル記事

ご覧いただきありがとうございます。

フリーランスでライターをしているuimと申します。

簡単な経歴は以下になります。

【経歴】
・2016年から現在まで、フリーランスのライターとして活動開始
これまで担当した事がある分野は

・美術・絵画系

・文化系

・教育系

・美容系

・インテリア紹介

など多数に渡ります。

お堅い文章から親しみやすい文章までお任せください。

 

美術・絵画系

大学で芸術学を学んでいたこともあり、美術・絵画の分野には深く精通している自信があります。

以下はサンプル記事です。

missoqto.hatenablog.com

文化系

専門にしている文化史に関する考察を述べた記事です。

一般向けに書いていたわけではないため、内容自体は非常にマニアックなものになっていますが、多くの人に向けた情報をまとめた記事のライティングも得意としています。

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教育系

私自信が受験業界から全く関係ない文脈から難関大学受験に挑んだという経験があり、教育に関しては人一倍関心があります。

いわゆる「勉強好き」ではない生徒さんも楽しめるような、それでいて先進的な記事を書けるように心がけています。

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ユートピアとしての団地文化 ひばりヶ丘団地から学園都市、タワーマンションへ

 

1960年代の日本の情勢が描写された映画作品を鑑賞した。オリンピック、高度経済成長、ヒッピー、サラリーマン神話の形成など見所は様々あった。特に私が惹かれた題材は「団地」の文化史である。今回鑑賞した映画の中では『しとやかな獣(1962)』で、ストーリーを読み解く重要な鍵として団地文化が描かれていた。また、資料として鑑賞したひばりヶ丘団地のプロモーションビデオ『団地への招待(1964)』の存在も外せない。
本レポートでは、現代社会の中ではもはや過去の遺産となってしまった「ユートピアとしての郊外型団地」の文化論について、現在私が所属している筑波大学のあるつくば市成立の歴史、2020年の東京オリンピックを前に建設ラッシュのタワー・分譲マンションなどを例に交えながら論じていく。


団地神話の形成−中産階級の夢

本授業で鑑賞した『しとやかな獣(1962)』は、かつて東京都中央区晴海に存在した「晴海団地」が舞台である。今でこそ高級タワーマンション街となり人気地区だが、1962年当時は埋立地の上に建てられた工業地帯の陸の孤島のような場所であった。
1964年の東京オリンピックを控え、高度経済成長に湧く東京には労働力として地方からの出稼ぎに来た若者や「サラリーマン文化」の形成に伴い「中産階級」が出現し人口が爆発的に増えた。「団地」はそうした社会背景と結びついて登場した文化装置である。
東京オリンピック開催の都市と同じ頃に公開されたプロモーションビデオ『団地への招待(1964)』を見てみよう。東京は田無市保谷市東久留米市(現在の西東京市東久留米市)にまたがって立地する「ひばりが丘団地」が舞台だ。新婚の夫婦が案内役となり、ひばりが丘団地に先住する自身の兄夫婦を訪ねるというストーリーである。新婚夫婦はひばりが丘団地の中をひとしきり見て回ることになる。団地内にはスーパーや役所の出張所、循環バスなどがあり団地がいかに優れた近代的生活であるかを、視聴者に耳にタコができるほど言って回る。設備にはダスト・シュートや水洗便所、ガス給湯器などがあり、なるほど確かに近代的な設計が施されていることがわかる。
忘れてはならないのが、舞台のひばりが丘団地の存在する西東京市東久留米市は今でこそベッドタウンとして人気地域だが、1964年当時は団地のような広大な敷地を必要とする施設が建設できるほど、まだまだ開発の進んでいない郊外地域だったということだ。先述した「晴海団地」の様子とさほど変わらなかったというのが実情だろう。
しかしながら、『団地への招待(1964)』のなかで団地は徹底的に「夢のユートピア」として描かれる。まるで「団地」がマイナス点が存在しないライフスタイルの完成形のように描かれているのだ。例として、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」が挙げられる。団地それ自体は旧ソ連の文化だが、ビデオの中の団地生活者は生活として合理的な「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を理想としていることがうかがえる。その一つが「家電」の存在である。「消費によって満たされる」という資本主義的価値観が家電の存在に現れている。当時、資本主義価値観を支えたのはサラリーマン家庭などの「新興中間層」の人々であった。団地は、外見はソ連型・内部はアメリカ型の当時の東西の最先端を「いいとこ取り」しているのである。これは「上流階級に憧れるけども手が届かない。しかし、ちょっといい生活はしたい」という願望を持つ当時の中産階級層の憧れ的であった。当時、ひばりが丘団地に入居していた層が中間階級層であったことは文藝春秋社『昭和の東京12の貌(2019)』の「ひばりが丘−最先端団地の「夢の跡」」という章にこんな記載からわかる。

家賃が高かったから、私を含めて共働きが多かったです。(略)サラリーマン以外にはお医者さんや大学の先生など、比較的所得が高い方が多かったわ。

ビデオの中に登場する人物もサラリーマン家庭で中産階級層である。まさに、団地は「中産階級の夢」であったのだ。


筑波大学宿舎

現在私の所属する茨城県つくば市筑波大学にある「学生宿舎」を例に挙げて団地文化を見てみよう。学生宿舎は1973年に筑波大学がつくばの地に誕生した時から存在する公式サイトには以下にように記されている。
筑波大学は、学生に良好な勉学の環境を提供し、自律的な市民生活を体験させることを目的として学生宿舎(単身用及び世帯用)を設置しています。(略)学生宿舎は、筑波大学構内の一の矢地区,平砂地区,追越地区及び春日地区に計68棟設置され,約4,000室の部屋があります。
宿舎には、現在も半数以上の新入生が宿舎に入居する。国立大学の中で敷地面積国内第2位を誇る筑波大学の宿舎は、宿舎というよりもはや「筑波団地」の名の方がふさわしい。宿舎の中でも学生が多く入居する「平砂地区」にはスーパーや銭湯、食堂、売店電気屋、美容室などがあり、学内はTXつくば駅筑波大学を結ぶ循環バスが運行している。まるで、「ひばりが丘団地」さながらではないだろうか。今みるとなんだか強制収容所のようで閉塞感を感じる側面もあるが、1973年当時、学園都市構想を謳うつくば市おいては「ひばりが丘団地」同様に「先進的」な環境であったのだろう。
つくば市は、1985年の「国際科学技術博覧会」、通称「つくば科学万博」で開発が一気に進んだという歴史がある。学園都市エリア周辺を歩いていると、南北に伸びるペデストリアンデッキや碁盤の目状の車道から、徹底した都市計画の元にまちづくりが行われていることがわかる。つくばは先進的な郊外型都市として発展してきたのだ。また、ひばりが丘団地と同じくつくば市(特に学園都市地域)はサラリーマン、研究所職員や公務員、大学職員など比較的所得の高い層が集中している。まさに、つくばは街全体が団地と言っても過言ではないのだ。


タワー・分譲型マンション−未来の「限界集落」はどこか

ここまで見てきたように、団地はオリンピックや万博などの国家の一大行事の開発に伴って発展してきた。『しとやかな獣(1962)』の舞台「晴海地区」は、現在高級タワーマンションの立ち並ぶ人気地域となっていると上記したが、晴海に限らず東京は2020年の東京オリンピックを目前に空前のタワーマンション建設ラッシュが行われている。都心部タワーマンションは1戸あたりの価格が3LDK約6000万円〜1億円以上で、とても庶民の手の出せる価格ではないが、建設ラッシュは留まる事はない。都心部限らず、首都圏の郊外エリアでも人口増加を見越して分譲型マンションが建設されている。
つくばも例に漏れず、つくばエクスプレス線を利用すると、沿線のマンション広告が必ず目に入る。つくばエクスプレスの人気地域「流山おおたかの森駅」周辺の新築マンションの価格帯は「ソライエ流山おおたかの森」の場合3LDK70m2で3400万円〜と記載がある。先ほどの都心部のマンションと比べると、まだ手の届く範囲の価格帯であることがわかる。前章でも述べたように、つくば市周辺地域の新興開発地域には都心部への通勤組のサラリーマン家庭や研究所職員や公務員、大学職員など「中間層」の消費者が多い。ゆえに、「ソライエ流山おおたかの森」のような分譲型マンションが中間消費者層をターゲットにしている事は明確である。
これは、まさに1964年の東京オリンピックの時に起こった団地の建設ラッシュと同じ構造である。団地文化は夢となって消えたのではなく「マンション文化」に取って代わられたのである。


終わりに

ここまで、団地からマンション文化への変遷をひばりが丘団地つくば市の事例、都心部・郊外型のマンションを例に挙げて振り返ってきた。2020年の東京オリンピックを目前にマンションはこれからも増え続ける事は明確だが、団地がそうだったようにいま現在建設されているマンションの行く末も現代の団地のようになることも自明の理である。
Business Journal(2016)「タワーマンション購入の悲劇…25年前の郊外戸建て購入者がたどった悲劇の再来か」という記事では、今から25年前のバブル期に「住宅神話」を夢見て郊外の一戸建て・団地を購入・取得した世帯の様子が書かれている。タイトルからもわかるように、バブル崩壊後に経済状況が変わり返済が困難になるという内容だ。加えて、現在マンションを購入する際にも25年後の状況を想像できないと危険と釘が刺されている。人気の高層マンションの場合は老朽化しても足場も容易に組めないため修繕費もかかり、支払いの負担に拍車がかかるというのだ。まさに、現在の「団地」と同様の道をたどることが書かれている。
団地もそうだったように、「住宅神話」の形成は「デベロッパー」によって行われてきた。人口減少に伴い、デベロッパーが築いてきた「ユートピアとしてのマンション文化」が夢の跡になる未来もそう遠くない。次のユートピアに安易に踊らされないためにも、「住宅神話」の成り立ちを理解することが重要なのではないだろうか。


参考資料

文藝春秋社(2019)『昭和の東京12の貌』文芸春秋社 
秋山駿(2002)『舗石の思想』講談社
原 武史(2012)『団地の空間政治学NHK出版 
 Business Journal(2016)「タワーマンション購入の悲劇…25年前の郊外戸建て購入者がたどった悲劇の再来か」<https://biz-journal.jp/2016/10/post_16881.html>2019年8月5日閲覧
 Business Journal(2016)「千万円マンションの35年ローン完済時、資産価値8百万円で廃墟化…物件で2千万の差」<https://biz-journal.jp/2016/09/post_16695.html>2019年8月5日閲覧
PRESIDENT Online(2018)「カフェやスーパーを誘致する筑波大の事情」<https://president.jp/articles/-/26751>2019年8月4日閲覧
Yahoo!ニュース(2019)「タワマンは「将来、廃墟」でタダ同然に?建て替えもできない「危機」の真相」<https://news.yahoo.co.jp/byline/sakuraiyukio/20190617-00128515/>2019年8月5日閲覧
zeitgeist「晴海は「輝ける都市」の夢を見るか~ 前川國男 の晴海高層アパート~」  <http://zeitgeist.jp/zeitgeist/晴海-輝ける都市の夢を見るか-前川國男/>2019年8月4日閲覧
筑波大学「学生生活の支援 学生宿舎・アパート情報」<http://www.tsukuba.ac.jp/campuslife/healthlife.html>2019年8月4日閲覧

自己と他者の境界について

自己とは何か

私がかねてより関心を持っている自己と他者の境界について。自己とは一体何であろう。ある時、「あなたがあなたである根 拠とは何であるか」という問いが投げかけられた。私はこの問いを前に一種の思考停止とも 言える状態に陥ってしまった。あなたがあなたである根拠がなかったとすれば、私は私でな いということになる。
しかし、個人(肉体)としての私は間違いなく存在するし、私が実はクラスのAさん
だったということが判明すればそれは由々しき事態だ。ここで、問いのあなたが指す対象は 私個人としての自己意識となる。自己とは何か。自己意識というのは私以外誰にも晒される ことはない。同様に他者の自己意識は当人以外にしかわかり得ないものである。しかし、自 己が自身の中で完結しているわけではない。私という自己は他者との経験も少なからず関与 しているからだ。では、自己と他者は何が違うのだろうか。同じ経験としたところで同じ自 己が形成されることはない。
自己は初めから存在するものなのだろうか。自己を考えるときに思い浮かぶのが「本 当の私」とは何かという問いだ。他者に見えている私は仮初の私であり、本当の私はもっと 奥深く深層に潜んでいるものだという考えである。では、深層に潜む私とは何か。よく言わ れるのは、自己像は「桃ではなく玉ねぎである」という回答だ。本当の私は桃のように種が 深部にあるのではなく、玉ねぎのように一枚一枚むいていくとなくなってしまうという考え だ。つまり、本当の私なんて存在せず全ての私が私であるということだ。しかし、今ここに いる私と友人といる私、家族といる私、仕事場にいる私、その他状況に合わせて私は違うで はないか。そして、何らかの外部要因によって変化を遂げる私と今ここにいる私が同じとい う根拠はどこにあるのか。ますます訳が分からなくなる。
考えてみれば、私は自分自身のことをどこまで把握できているのか。第一、私は自分 の全てを自分で見つめることはできない。
本稿では、この自己像と他者の関係について身体と意識に焦点を当て論じてい く。

顔の問題

自意識あるいは自己を象徴する身体部位で一番目立つものがやはり「顔」である。し かし、それでいて自分の顔が好きという人は少ないと思う。いや、正確にいうと皆自分の顔 を好きだと思いたいのだが、自分の中にある自己像と、他者の中にある「私」が食い違うこ とが怖いのだと思う。自分の中にある自己像とはつまり、理想化された自分だ。「こう在り たい」という想いの塊だ。理想化された自意識だ。ここで、思うのは、自身の「顔」と「自 意識」が密接に結びついているという事だ。「顔」が「私」なのか「私」が「顔」なの か...。「顔に泥を塗る」という慣用句があるが、これは「顔」という「私自身」の名誉に傷 をつけるという意味である。「顔を立てる」、「顔が広い」、「顔色を伺う」...。顔と自意 識が結びついている。
しかし、何とも苦しいことに。人体の構造上どう足掻いても私たちは自分の顔を「直 視」することはできない。もちろん、鏡に映してみたり、写真を撮ってみたり、「像(イメー ジ)」として認識することは可能かもしれないが、「物体」としてみることは永遠に不可能 である。つまり、私たちは自らの自意識を直視することは永遠にできず、バラバラなコラー ジュのようなイメージの元に自己像を把握している。しかし、イメージには「理想」が介入 せざるを得ない。イメージは正確ではない。つまり、自分が把握している自己も正確ではな いということだ。

イメージの元はどこから来るのか。私たちは、自分の顔を直視することはできない代 わりに、「他者」の顔は直視することができる。理想的な他者の顔はいくらでも溢れてい る。私たちは、テレビ、スマートフォン、PC、雑誌あらゆるメディアに囲まれている。そこにあるのは究極的に理想化された顔だ。私たちは、現実ではない理想の世界を現実だと思い込み、その差異に苦しむ。すなわち、その差異に苦しんでいる間は自己と他者の境界線がなくなっている。なぜ私は理想(他者)と違うのだろうかとその永遠に埋められない溝を埋めようと必死になるのだ。
  ゆえに、自分の自己像と他者の中にある私の乖離に怯えてしまう。自分でも自分がわからない故に、他者との境界はより曖昧なものとなる。
特に、自己像と本当の自己の乖離を映し出すのが写真である。写真は私たちにその差 異を痛いほど晒し続ける。自分が映った写真を見ると思わず「自分ってこんな顔してたん だ」と呟いてしまう。毎日鏡に映し出される像という主観的な自己とカメラのレンズという客観的な自己は自分が思っている以上にかけ離れているものだ。写真の中に自己像と乖離し た自分がいる。自分とは思えない自分が存在しており、尚且つそれが本当の私として外部に 流布しているこの現象はある意味不気味だ。それと同時に、他者から見えている私を目の前 にして愕然とする。


他者の眼差しの内在化


このように、写真は私たちの理想と現実の差異を映し出すものである。極端に言って しまえば、写真が登場して以降になって、初めて私たちは「他者の視点」で自分自身を見つ めることが可能になったとも言える。
 ところで、現代はほとんどの人がスマートフォンを所有している。スマートフォン が登場して以降、私たちの生活は「他者の視線」に晒されることになった。それは、スマー トフォンにはカメラが搭載されており、かつ気軽にSNSなどのインターネット環境に写真を アップロードすることが可能になったからである。つまり、「他者の視線」を意識すること を前提に、写真を撮影している。
 特に、気になるのが「自分撮り」または「自撮り」という行為だ。今日も、インター ネット上には数多の「自分撮り」が溢れている。もちろん、自分自身を撮影する、という行 為は写真が登場する以前から行われている。画家の「自画像」などもその一例と言える。し かし、「自画像」と「自分撮り」の違いは、前者は「記録」的な側面が強いが、後者は「理 想化された自分への修正」という面が強い。自撮り写真は当人の理想化された自己像が映し 出されている。「盛る」という言葉がある。主に、若年の女性の間で用いられるものだが、
﹅﹅ これは実際の自分よりも写真の中でどれだけ良く映ることができるか、すなわち実像にいか
に良い細工を盛る事ができるかを指している。時には写真にスマートフォンアプリなどで過 剰なまでに修正を施してあるものもある。
谷本奈穗「美容整形と化粧の社会学 プラスティックな身体(2009)」という本にはこの ような興味深い記述がある。

 彼女たちはいくら外見を褒められても身体を変えたいという願望があるという。つまり、他者の実際の評価や言葉はさほど重要視されていないということになろう。

彼女たちが前提にするのは「自分の中の判断・評価」であるという。(略)確かに「実 際に言われる評価」は重要ではない。そのかわり、「自分で想像した他者の評価」は重要な のである、と。すなわち、想像上の他者が、身体を変えれば、良い評価をしてくれることを 自分の中で信じているということである。

つまり、自分撮りを行う心理には、「自分の中の他者の視線」を意識しながら行なっ ていると言える。「実際の他者の評価や発言」は重要ではないからこそ、「自分の中の他者 の評価」に全てが委ねられることになる。それゆえに、他者から見ると不気味なまでに歪ん だ身体が、当人にとっては理想の美となることが生じるのだ。
ここに、自己像と他者の意識のバランスが身体に現れていることを見て取れる。


意識の上での自己と他者


ここまで、身体的な面での自己像と他者の関係について見てきたが、ここからは意識 の面での「私」の構造を見て行きたい。私が私である根拠を考える時に思い浮かぶのは、お しゃれだとか、明るいとか、気遣いができるだとかそんなものである。しかし、それはあく まで他者準拠的であり、そこにあるものは自分だけの性質ではなく、おおよそ多かれ少なか れ誰もが持っているものである。これは他者にも言える。Aさんと仲がいい理由は彼女が優しいからだとか気が利くから、頭がいいからなど、持っている要素だけが理由ではない。し かも、それを挙げるのは何だか打算的にも思え気が引ける。しかし、改めて考えてみるとな ぜ自分なのか、他者なのかという答えはひどく曖昧なものになる。はじめから自己として存 在しているものなどなく、これらは社会や環境という周囲によって生み出されるものではな いかと考える。つまり、自己と他者はミクロコスモスとマクロコスモスのように互いに相関 し合いながら、変容しているのだ。私が誰であるかは周囲との関係によって生み出される。 すると、周囲と私との間には私と私ではないものの境界が生まれる。そして、それは時には 私であり、時には私ではなくなる。私か私でないものを決めるのはその輪郭である境界だ。 その境界は二元論的に私である・私でないとはっきり白黒がつくのではなく、相関しあい、 時には混じり合うものである。私が私である理由を考えることは私が私でない理由を考える ことと同義である。


終わりに


あなたがあなたである根拠とは何であるかという問いに対し、自己 像と自意識、自己と他者の関係という側面から論じてきた。その問いに対する答えを出すと するならば、その根拠は誰にも分からないとなる。あなたがあなたである根拠、私が私であ る理由を探ると「わたしはだれ?」という問いにいきつく。私が誰であるか、私が私を証明 する時に、私は私であることと同時に私は私でない理由も考えなければならない。そうなる と、自己と他者の境界について考えることになるが、自己は他者との境界によって形作られ る。すなわち、私が私である根拠を考える時に、他者が他者である根拠も考えることにな る。そうなると、弾き出される答えは「自己も他者も誰にも分からない」となる。
しかし、この問いに関する解はないが「私自身」を考える際に他者の持つ可能性を引 き出してその「境界」について考えることは現代において有用である。


参考文献
オルグジンメル『橋と扉』白水社1998年 谷本奈穗『美容整形と化粧の社会学 プラスティックな身体』新曜社 2009年 平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』講談社 2012年 鷲田清一『じぶん・この不思議な存在 』講談社 1996年
鷲田清一 『顔の現象学講談社 1998年