自己と他者の境界について

自己とは何か

私がかねてより関心を持っている自己と他者の境界について。自己とは一体何であろう。ある時、「あなたがあなたである根 拠とは何であるか」という問いが投げかけられた。私はこの問いを前に一種の思考停止とも 言える状態に陥ってしまった。あなたがあなたである根拠がなかったとすれば、私は私でな いということになる。
しかし、個人(肉体)としての私は間違いなく存在するし、私が実はクラスのAさん
だったということが判明すればそれは由々しき事態だ。ここで、問いのあなたが指す対象は 私個人としての自己意識となる。自己とは何か。自己意識というのは私以外誰にも晒される ことはない。同様に他者の自己意識は当人以外にしかわかり得ないものである。しかし、自 己が自身の中で完結しているわけではない。私という自己は他者との経験も少なからず関与 しているからだ。では、自己と他者は何が違うのだろうか。同じ経験としたところで同じ自 己が形成されることはない。
自己は初めから存在するものなのだろうか。自己を考えるときに思い浮かぶのが「本 当の私」とは何かという問いだ。他者に見えている私は仮初の私であり、本当の私はもっと 奥深く深層に潜んでいるものだという考えである。では、深層に潜む私とは何か。よく言わ れるのは、自己像は「桃ではなく玉ねぎである」という回答だ。本当の私は桃のように種が 深部にあるのではなく、玉ねぎのように一枚一枚むいていくとなくなってしまうという考え だ。つまり、本当の私なんて存在せず全ての私が私であるということだ。しかし、今ここに いる私と友人といる私、家族といる私、仕事場にいる私、その他状況に合わせて私は違うで はないか。そして、何らかの外部要因によって変化を遂げる私と今ここにいる私が同じとい う根拠はどこにあるのか。ますます訳が分からなくなる。
考えてみれば、私は自分自身のことをどこまで把握できているのか。第一、私は自分 の全てを自分で見つめることはできない。
本稿では、この自己像と他者の関係について身体と意識に焦点を当て論じてい く。

顔の問題

自意識あるいは自己を象徴する身体部位で一番目立つものがやはり「顔」である。し かし、それでいて自分の顔が好きという人は少ないと思う。いや、正確にいうと皆自分の顔 を好きだと思いたいのだが、自分の中にある自己像と、他者の中にある「私」が食い違うこ とが怖いのだと思う。自分の中にある自己像とはつまり、理想化された自分だ。「こう在り たい」という想いの塊だ。理想化された自意識だ。ここで、思うのは、自身の「顔」と「自 意識」が密接に結びついているという事だ。「顔」が「私」なのか「私」が「顔」なの か...。「顔に泥を塗る」という慣用句があるが、これは「顔」という「私自身」の名誉に傷 をつけるという意味である。「顔を立てる」、「顔が広い」、「顔色を伺う」...。顔と自意 識が結びついている。
しかし、何とも苦しいことに。人体の構造上どう足掻いても私たちは自分の顔を「直 視」することはできない。もちろん、鏡に映してみたり、写真を撮ってみたり、「像(イメー ジ)」として認識することは可能かもしれないが、「物体」としてみることは永遠に不可能 である。つまり、私たちは自らの自意識を直視することは永遠にできず、バラバラなコラー ジュのようなイメージの元に自己像を把握している。しかし、イメージには「理想」が介入 せざるを得ない。イメージは正確ではない。つまり、自分が把握している自己も正確ではな いということだ。

イメージの元はどこから来るのか。私たちは、自分の顔を直視することはできない代 わりに、「他者」の顔は直視することができる。理想的な他者の顔はいくらでも溢れてい る。私たちは、テレビ、スマートフォン、PC、雑誌あらゆるメディアに囲まれている。そこにあるのは究極的に理想化された顔だ。私たちは、現実ではない理想の世界を現実だと思い込み、その差異に苦しむ。すなわち、その差異に苦しんでいる間は自己と他者の境界線がなくなっている。なぜ私は理想(他者)と違うのだろうかとその永遠に埋められない溝を埋めようと必死になるのだ。
  ゆえに、自分の自己像と他者の中にある私の乖離に怯えてしまう。自分でも自分がわからない故に、他者との境界はより曖昧なものとなる。
特に、自己像と本当の自己の乖離を映し出すのが写真である。写真は私たちにその差 異を痛いほど晒し続ける。自分が映った写真を見ると思わず「自分ってこんな顔してたん だ」と呟いてしまう。毎日鏡に映し出される像という主観的な自己とカメラのレンズという客観的な自己は自分が思っている以上にかけ離れているものだ。写真の中に自己像と乖離し た自分がいる。自分とは思えない自分が存在しており、尚且つそれが本当の私として外部に 流布しているこの現象はある意味不気味だ。それと同時に、他者から見えている私を目の前 にして愕然とする。


他者の眼差しの内在化


このように、写真は私たちの理想と現実の差異を映し出すものである。極端に言って しまえば、写真が登場して以降になって、初めて私たちは「他者の視点」で自分自身を見つ めることが可能になったとも言える。
 ところで、現代はほとんどの人がスマートフォンを所有している。スマートフォン が登場して以降、私たちの生活は「他者の視線」に晒されることになった。それは、スマー トフォンにはカメラが搭載されており、かつ気軽にSNSなどのインターネット環境に写真を アップロードすることが可能になったからである。つまり、「他者の視線」を意識すること を前提に、写真を撮影している。
 特に、気になるのが「自分撮り」または「自撮り」という行為だ。今日も、インター ネット上には数多の「自分撮り」が溢れている。もちろん、自分自身を撮影する、という行 為は写真が登場する以前から行われている。画家の「自画像」などもその一例と言える。し かし、「自画像」と「自分撮り」の違いは、前者は「記録」的な側面が強いが、後者は「理 想化された自分への修正」という面が強い。自撮り写真は当人の理想化された自己像が映し 出されている。「盛る」という言葉がある。主に、若年の女性の間で用いられるものだが、
﹅﹅ これは実際の自分よりも写真の中でどれだけ良く映ることができるか、すなわち実像にいか
に良い細工を盛る事ができるかを指している。時には写真にスマートフォンアプリなどで過 剰なまでに修正を施してあるものもある。
谷本奈穗「美容整形と化粧の社会学 プラスティックな身体(2009)」という本にはこの ような興味深い記述がある。

 彼女たちはいくら外見を褒められても身体を変えたいという願望があるという。つまり、他者の実際の評価や言葉はさほど重要視されていないということになろう。

彼女たちが前提にするのは「自分の中の判断・評価」であるという。(略)確かに「実 際に言われる評価」は重要ではない。そのかわり、「自分で想像した他者の評価」は重要な のである、と。すなわち、想像上の他者が、身体を変えれば、良い評価をしてくれることを 自分の中で信じているということである。

つまり、自分撮りを行う心理には、「自分の中の他者の視線」を意識しながら行なっ ていると言える。「実際の他者の評価や発言」は重要ではないからこそ、「自分の中の他者 の評価」に全てが委ねられることになる。それゆえに、他者から見ると不気味なまでに歪ん だ身体が、当人にとっては理想の美となることが生じるのだ。
ここに、自己像と他者の意識のバランスが身体に現れていることを見て取れる。


意識の上での自己と他者


ここまで、身体的な面での自己像と他者の関係について見てきたが、ここからは意識 の面での「私」の構造を見て行きたい。私が私である根拠を考える時に思い浮かぶのは、お しゃれだとか、明るいとか、気遣いができるだとかそんなものである。しかし、それはあく まで他者準拠的であり、そこにあるものは自分だけの性質ではなく、おおよそ多かれ少なか れ誰もが持っているものである。これは他者にも言える。Aさんと仲がいい理由は彼女が優しいからだとか気が利くから、頭がいいからなど、持っている要素だけが理由ではない。し かも、それを挙げるのは何だか打算的にも思え気が引ける。しかし、改めて考えてみるとな ぜ自分なのか、他者なのかという答えはひどく曖昧なものになる。はじめから自己として存 在しているものなどなく、これらは社会や環境という周囲によって生み出されるものではな いかと考える。つまり、自己と他者はミクロコスモスとマクロコスモスのように互いに相関 し合いながら、変容しているのだ。私が誰であるかは周囲との関係によって生み出される。 すると、周囲と私との間には私と私ではないものの境界が生まれる。そして、それは時には 私であり、時には私ではなくなる。私か私でないものを決めるのはその輪郭である境界だ。 その境界は二元論的に私である・私でないとはっきり白黒がつくのではなく、相関しあい、 時には混じり合うものである。私が私である理由を考えることは私が私でない理由を考える ことと同義である。


終わりに


あなたがあなたである根拠とは何であるかという問いに対し、自己 像と自意識、自己と他者の関係という側面から論じてきた。その問いに対する答えを出すと するならば、その根拠は誰にも分からないとなる。あなたがあなたである根拠、私が私であ る理由を探ると「わたしはだれ?」という問いにいきつく。私が誰であるか、私が私を証明 する時に、私は私であることと同時に私は私でない理由も考えなければならない。そうなる と、自己と他者の境界について考えることになるが、自己は他者との境界によって形作られ る。すなわち、私が私である根拠を考える時に、他者が他者である根拠も考えることにな る。そうなると、弾き出される答えは「自己も他者も誰にも分からない」となる。
しかし、この問いに関する解はないが「私自身」を考える際に他者の持つ可能性を引 き出してその「境界」について考えることは現代において有用である。


参考文献
オルグジンメル『橋と扉』白水社1998年 谷本奈穗『美容整形と化粧の社会学 プラスティックな身体』新曜社 2009年 平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』講談社 2012年 鷲田清一『じぶん・この不思議な存在 』講談社 1996年
鷲田清一 『顔の現象学講談社 1998年